スポーツにおける暴力の研究と若干の方法論的問題提起 ~急がば回れ~

本稿は、2014年9月14日、第63回九州体育・スポーツ学会のシンポジウム(第一専門分科会主催)において「体育とスポーツにおける暴力の研究方法論への若干の問題提起〜急がば回れ〜」と題して行った講演の概要である。

本シンポジウムは、「ブラック部活の新時代」や「桜宮ショック」(「教育は変わるのかー部活動問題・給特法・大学入学共通テスト」現代思想2019vol.47-7)として、今なお教育およびスポーツの研究者・関係者の間で語り継がれている桜宮高校バスケットボール部の暴力事件を受けて企画されたものである。表向きは「シンポジウム」として開催されているが、筆者の「単独講演」である。その理由は、筆者が1980年代から30数年間に渡って「スポーツにおける暴力」を研究の主題にしてきたことにシンポジウムのコーディネーターが気づいてくれたことにある。

演題は「体育とスポーツにおける暴力」として設定しているが、当該シンポジウムで取り上げる「暴力的事象」、なかでも「運動部活動における暴力」は、「体育」や「スポーツ」の枠組みで一括して論ずることができないほど複雑な内容を含んでいる。むしろ現実は、しばしば「教育活動の一環」として語られるように、教育システムとスポーツシステムの「境界領域」で問題は発生しているのである。このことを認識しないまま、「研究者コミュニティ」である体育およびスポーツの学会では、学校教育法11条で明示的に規定されている「体罰」と、そうした法的根拠を持たない「暴力」を「体罰・暴力」として並列させて論じていることは、言語の「文脈依存性」という観点から顧みたとき、学問的に無視し得ない問題と矛盾を孕んでいる。

確かに<死>という厳粛な事実を前にして、体育およびスポーツにおいて発生する暴力問題の研究に携わることを社会から負託されている学会として、早急に問題の解決を図らねばならない苦しい事態へと追いつめられていたことは理解できる。だからといって、そのことが学問的に遊離した地点から論ずるに至っては、長い目で見たとき、体育科学やスポーツ科学の<知>の蓄積と社会的貢献に限界を生じさせることは明らかである。「いつ、いかなることがあっても暴力は許されない」と主張することは容易いが、メディアの「アジェンダ」(議題設定)を無前提に受け入れ、それ自体、法的にも規範的にも、さらには社会文化的にも異なる文脈状況の中で語られるべき問題である「体罰」や「暴力」を「体罰・暴力」のそれとして一括して論ずることはむしろ、徒に混乱を招くだけである。この筆者と学会との間にある「認識の乖離」とどのように向き合うべきか。ここに、長年「スポーツにおける暴力」の研究に社会学的な関心を寄せてきた筆者の苦悩がある。

本講演の副題であえて「急がば回れ」と謳ったのは、この問題への学問的蓄積が十分でなく責任を負えないにも関わらず、一連の「緊急声明」を通して学術団体としての価値判断を鮮明にし、問題の解決を急いできた体育およびスポーツの関連学会の姿勢に対して疑問を投げかけることを企図してのことである。今まさに我々研究者に求められているのは、徒に問題の解決を急ぐことではなく、むしろ当該問題の孕む「複雑さ」や「矛盾」、「逆説性」を「抑制的な態度」すなわち「忍耐力」を持って受け入れることである。その意味では近年、精神科医の間で注目されている「ネガティブ・ケイパビリティ negative capability」(帚木蓬生「ネガティブ・ケパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」朝日新聞出版、2017)という概念は、今後、この問題に関する学問的な<知>の蓄積を図っていく上で重要な指針となるものである。

<概要>
2013年1月に発覚した「高校バスケットボール部の顧問教師による所謂「体罰」が原因で生徒が自殺した」と言われる事件をきっかけに、女子柔道ナショナルチームの指導者による「暴力」や大学柔道部の上級生の「暴力」等々、「スポーツにおける暴力」が大きくメディアで取り上げられ、社会全体の関心を集めることになった。この高校運動部の事件は、「生徒の自殺」という衝撃の大きさもさることながら、私たち体育およびスポーツ科学の研究教育に従事する専門家集団のメディアリテラシーを主に、その問題への学術団体としての「社会的反作用」という点で、多くの学問的に反省すべき課題を残した。本講演では、それらの課題の中から再考すべき論点を三点に絞り、主に社会学的観点から論究したい。

その第一が、「体罰」と「暴力」の定義-「類概念」と「種概念」、「過程中心主義」と「結果中心主義」-に始まって、所謂「体罰・暴力」問題への学問的アプローチの前提となる認識論的・方法論的課題であり、第二は、スポーツにおける暴力の発生メカニズムを現象学的・臨床的視座から導き出した「加害者-被害者-目撃者」の「関係性」-「三角関係」(ジラール『欲望の現象学』)および「トライローグ構造」(山崎正和『演技する精神』)-として捉え、「加害者-被害者」の「二項対立関係」として捉える既存のアプローチの道徳性とその限界-「不作為の暴力への認識の欠如」「当事者意識の欠落」「悪しき科学主義の論理」等々-を浮き彫りにすることである。そして最後に、今日、現代への時代認識として主に科学社会学の分野で注目を浴びている「トランス・サイエンスの時代」(小林傳司)における体育とスポーツの科学・科学技術の果たすべき社会的役割と、「どうしたら体育やスポーツ、運動部活動から暴力をなくすることができるか」という「トランス・サイエンスの問題」-科学者や指導者、教育者らの専門家集団の守備範囲を超えた問題群-に対する我々の身の処し方について提案したい。すなわち、それは単なる意見を戦わせる「議論」ではない。体育とスポーツの研究者、(体育を含む)教育の専門家集団、スポーツ指導の専門家集団、学生・生徒およびアスリート、体育とスポーツの活動の外部にいる素人集団、等々が「相互の立場と意見の相違」を認め、尊重し、そして「共感」することを通して「共通の目的」(「概念構築」)に向かって「合意形成」(「間主観性」)を図っていく「実験的試み」である。このような地道な試みを通して将来、我々がなすべきことは、体育とスポーツの合理性を高める「制度構築」への提言である。

「スポーツにおける暴力」は日本社会だけの問題ではない。本講演では、これまで学問的見地から体系的・理論的に捉えるよりは、むしろ「常識」-「いつ、いかなる理由があろうとも暴力は許されない」という「体罰・暴力根絶」言説-の範囲に止まることの多かった「スポーツにおける暴力」について論ずるためには、その前提として、1970年代から今日まで、この問題の研究に関して分野を超えた幅広い<知>の蓄積のある欧米の学説に学び、その歴史的展開を詳述する必要がある。なぜなら、2013年に発覚した事件以降、日本体育学会は「緊急声明」に続いて「体罰・暴力根絶特別委員会」を組織し、各専門領域に「体罰・暴力根絶のための検討課題」を提示して、各代表者に論文形式で提言をまとめさせることになるが、この問題に関する部厚い研究成果を残してきた欧米の著書・学術論文を引用・参照した研究者は、ほとんど皆無に近かったからである。もちろん、当該「事件」が発生した「運動部活動」は、欧米に類を見ない我が国独特の制度であり、このことがわが国の研究動向に反映していることは間違いない。しかしながら、このようなことを加味しても、「スポーツにおける暴力」を幅広く、そして多角的にアプローチしてきた海外の研究動向への目配りを欠くことは、将来、研究の「底が浅い」とか「底が抜けている」とかいう批判を招きかねない。

因みに、本シンポジウムでは、こうした厚みのある海外の研究動向と、先進国のスポーツにおいて子どもたちへの暴力が深刻な問題となってきたことを認識していただくために、筆者の講演と併行して、フロアの皆様方に、ユニセフの出版した冊子「スポーツにおいて子どもたちを暴力から守るために」(UNICEF Innocent Research Centre,’Protecting Children From Violence IN Sport: A Review With A Focus On Industrialized Countries’ July 2010)を回覧していただいた。

「スポーツにおける暴力」は、時代と社会、文化の変容はもちろんのこと、スポーツの展開する「場所」の「危険性」(「リスク」)と「文脈依存性」(「プロセス」)の中で様々な<相>として立ち現われてくる。その意味では、きわめて多面的・多義的・逆説的な現象である。一例として、このことを「ジェンダー化された暴力 gendered violence」という視点から際立たせてきたのが「ジェンダー研究」であるが、今回の検討では充分に生かされていたとは言い難い。

所謂「体罰・暴力根絶」宣言に見られるように、一面的・一義的・首尾一貫した認識に至ることなど到底できない。ここでは時間的制約もあり、「スポーツにおける暴力」を主として、必要に応じて「体育における暴力」と関連させて論じることにする。その上で、体育やスポーツにおける暴力が人間と文化、社会を理解する上で、いかに「豊かな鉱脈」をもっているか、またその一方で「暴力」という「アンビヴァレントな存在」と向き合ったとき、いかに研究者らは自ら「矛盾」を抱え、その「当事者」として「ジレンマ」に悩み苦しんできたのかを、欧米の「スポーツ・バイオレンス Sports Violence」と「スポーツに関連する暴力 sports-related-violence」の研究史を通して伝えていきたい。

1970年代に大西洋を挟んだ国々で、プロ・スポーツ界に司法が介入したことをきっかけに「暴力はゲームの一部か?」(Horrow, R. 1976)が問われるようになってから40年余り、それは、今なお「暴力は依然としてゲームの一部である」(Atkinson, M. 2010)、「フィールド上とフィールド外の暴力-問題はスポーツ文化なのか社会なのか?」(Gatz, M, Messner, M, & Ball-Rokeach, S, 2002)、「スポーツ・バイオレンスからスポーツ犯罪へ」(Young, K, 2002)、等々として問われ続けている。それはまさに「永遠のアポリア」である。

社会全体から我々体育およびスポーツ科学の専門家集団に「体罰・暴力根絶」への処方箋を早急に出すことを求められているこの時期に、あえて副題で「急がば回れ」と謳った背景には、これまでの私自身の学問的研究の浅薄への自己反省と、ともすれば結論を急ぐあまり性急に流れることへの自戒の意味が込められている。この「選択」は、何らかの具体的処方箋を期待している方には甚だ物足りない内容であることは否めず、ここに至って「何を悠長なことを!」とお叱りを受けることを覚悟している。まさに「進むも地獄、退くも地獄!」の心境である。